2005.2/掲載● 第一回 2005.10/掲載● 第二回 ・ 2007.12/掲載●第三回
【第三回】
モウシの死
 二〇〇七年の一月二十日、夜の十二時に、動物病院の医者から電話があった。「十一時五十五分に、モウちゃんが亡くなりました」と。激しく暴れて痙攣し、二、三回飛び跳ねてそのまま息絶えたという。私は「わかりました」というのがやっとのことだった。  モウシは一昨日から急に食欲をなくし、いつものように私の布団で寝なかった。暗くて寒い窓際に臥せたままだった。昨日も水ばかり飲んで、屋根裏の私の寝室から一歩も出なかった。私は外でまたよからぬものを食べた下痢症状だろうと高をくくっていた。しかし今朝も水を飲もうとしてその場に立ちつくしたままで、見るからに辛そうな様子に、さすがに心配になり急いで病院に連れて行った。  医者は、目に黄疸症状が出ていて、腎不全や糖尿病、肝硬変の疑いもあるが精密検査すれば、夕方に結果が出るというので、モウシを置いて帰り、四時に再び病院に出向いた。「残念ながら白血病です」と医者は言った。今点滴を施しているが緊急入院です。二三日様子を見ましょう。治癒した例もあるから諦めないでください、と言う。私は耳を疑った。つい二日前までモウシは相変わらず食欲旺盛で、散歩にも連れて行き、かくれんぼしたり一緒に駆けっこしていたのだ。  私は、できる限りの治療をお願いします、と言って、隣室にあるケージを覗いた。点滴を受けながら身動きもしないモウシに「モウシ、モウシ」と声をかけても反応がなかった。その寝顔を見て私はその急激な事態の進展に初めて動揺した。明日必ず伺います、と病院を辞した、その七時間後の訃報だった。私は「ちくしょう!、ちくしょう!」と思わず叫んだ。理不尽な死にたいする怒りの後に、悲しみが襲いかかり堪えきれずに哭いた。助からないものとわかっていたら、せめてその最後を看取ってやれたものを。無念だった。  半年ほど前、モウシの耳の中が妙に黒く臭かったので、私が初めて病院に連れて行った時、医者は、「この耳ダニは治せますが、あなたの住んでいるところは、猫エイズが蔓延していて非情に危険です。外に出さない方がいいでしょう」と言った。しかし私たち夫婦がどう考えても、日常的に今さらソラとモウシを室内に閉じ込めることは不可能だった。ソラもモウシも広い庭で、スズメや野ネズミを追いかけ、木に登り、私と散歩するのが日課だった。猫の本性を満足させる自由な庭を外に、室内という檻の中に閉じ込めることなど、もってのほかだった。その時私たち夫婦は医者特有の大袈裟な忠告だと、己に言い聞かせながら、それでも諦めて覚悟した。私はモウシを抱いて言った。「不自由な思いをしてまで長生きなんかするな、好きなものを一杯食べて、太く短く生きろ。骨は拾ってやるぞ」と。しかし誰が予想できたろうか。こんなにも早いモウシの死を。 翌日の朝、早々にモウシの遺体を引き取りにいった。医者は「牛小屋の子猫時代にもう罹っていたかも知れません」と慰めてくれたが、私の悲しみは深く何を言われても上の空だった。  モウシは庭の片隅に毛布でくるんで埋めた。目を閉じようとしたが硬直したまま閉じられなかった。モウシに相応しい茶色の石を探して墓石にした。表に「寂」、裏に二〇〇七年一月二〇日没、享年二歳三ヶ月、孟子の墓と揮毫した。私のアトリエの戸を開け放つとよく見えるところに墓はある。
私のモウシ
 あまりにも迅速なモウシの死に私はただただ茫然としていた。二日前までモウシと過ごしたこの一年と三ヶ月は文字通り一日中一緒だった。ギャラリーやアトリエや屋根裏部屋、庭の草木の一本一本にモウシの貌や仕草や臭いがホウフツとして生々しく、「モウシの死」を実感するたびに、悲鳴を上げたくなるような悲しさがが襲いかかった。  悲しさを紛らわそうと本を読んだり、絵を描こうとしたが、長続きしなかった。映画を見ても心そこにあらずで、モーツァルトの音楽でさえ、聞く気にならなかった。  モウシのためにに、鳥小屋の屋根の上に立てた白い傘を見るのが何よりも辛かった。天気の良いときには日傘になり、雨の日は雨傘となってモウシがよくくつろいでいたのだ。手を差し伸べるとモウシは私の指を舐め手を枕に、柔らかい風に包まれて眠った。私はその白い傘を見る忍びず取り外した。  1ヶ月たっても事態は変わらなかった。モウシのことを考えまい思い出すまいとすればするほど、モウシの「不在」が私を襲い苦しめた。  ある日、私はパソコンで絵画作品の写真を整理していた。その時間違ってモウシの項をクリックしてしまった。たちどころにモウシの写真がおびただしく表れた。あわてて消そうと思ったが、久しぶりに見るモウシの貌に、悲しみではなく、思いがけなくも、やすらぎにひたされた。初めて逢った日からのことが堰を切ったように次から次へと思い出されて、私はひたすらモウシ懐かしんだ。逃れられない「想い出」ならば、むしろ「想い出」を積極的に迎え入れよう。一ヶ月という時間の流れに慰撫されて、私はモウシの死をやっと受けいれられた。そう思った。          *  二〇〇五年十月十三日の夕方、私は村の中をバイクでゆっくりと走りながら、牛小屋の前を通った。追いかけて来るものがあるので犬かなと思ったが、子猫だった。バイクを止めて降りるとその子猫は、私の足にグイグイを体を押しつけ、抱き上げると私の胸にしがみつき、貌をなめ回した。私は仰天した。この歳までこれほどの親愛の情をヒトからも動物からも受けたことがなかった。女房が一年前から飼っているメス猫のソラは、まことにつれない女で、抱き上げても、前足を突っ張って顔をそむけ、すぐ逃げてしまう。一度何ぞ毛づくろいしているソラに、「ソラや、元気ですか」と声をかけると、私の顔をうとましそうに見上げるなり、くるりと背を向け再び毛づくろいをし始めた。これにはさすがの私も傷ついた。それにくらべて、と思うと、私はこの初対面の子猫に完全に心奪われてしまった。あらためてその子猫をよく見ると、肋骨が透いて見えるほど痩せた金茶のトラ猫のオスだった。目も金色に光っていた。野良猫にしては、馴れ馴れしすぎるし、飼い猫にしては痩せすぎていると私は考え、一瞬躊躇したが、是が非でも飼うことを次には決心していた。  バイクの荷台に子猫を入れて私はアトリエに戻った。ソラのために買っておいたシラス入りのマグロの缶詰を開けて、子猫の前に置いた。その時、子猫が上げた鳴き声を私は一生忘れないだろう。「アヒョウー、アヒョウー」と、まるで人間が山海の珍味を前にしてあげる嘆声そのものだった。ひと缶空けた子猫は、舌なめずりしてまだ頻りにねだるので、ドライ・フードを皿に盛ると、たちまちそれも平らげてしまった。日頃何を食べていたのかと、哀れに思ったが、今日はそれだけにしろ体に良くないから、と抱き上げた。  子猫は腹が満たされ眠くなったのか、気がつくと本を読んでいる私の膝の間に丸くなって眠りこけていた。その安心しきった寝顔を見ていると、とても初対面だとは思えなかった。子猫から枯れ草と牛糞の臭いが漂っていた。やはり牛小屋で飼っている猫かな、と不安になり奥さんに見せたところ、間違いなく牛小屋の猫だという。しかし子猫は帰る気配が全くなかった。私はどうしても飼いたい旨奥さんにに伝えた。反対すれば、ネコ離婚も辞さないつもりだった。その日子猫は私の寝室である屋根裏部屋に泊めた。子猫は、私の布団の中でいつまでも「ゴロゴロ」と大きく喉をならして止まず、鼾かな、と誤解したくらいだった。  翌日、奥さんを伴って私は子猫を返しに行った。そして何としてもこの子猫を譲り受けたい、と牛小屋の主人に言ったが、当方も貰ったばかりで駄目だ、と断られた。私は気落ちしたが、如何ともし難かった。よっぽど何故こんなに飢え、痩せているのかと詰問したかったが、狭い村中の争いごとははばかれたので我慢した。不愉快な推理だが、おそらく牛小屋にはびこるネズミの駆除のためにのみ飼われていたのだろう。目的のためには子猫を飢えさせて当然なのだ。私は人間の身勝手を腹立たしく思い、子猫に対する押さえようのない憐れみでいたたまれなくなり牛小屋を辞した。しかし私は子猫との間がこれで終わったとは思いたくなかった。  明くる日は大雨で、外出好きのソラも諦めて家の中にいた。未練がましくひょっとしてという私の期待を押し流すような大雨だった。そしてその次の日、雨上がりの朝の十時頃、屋根裏部屋の戸から、か細い猫の鳴き声がした。はやる心を抑えながら戸を開けると、子猫が活きよいよく飛び込んで来た。入ってくるなりところ嫌わず私の顔をなめ回した。私がどんなに嬉しかったかを、どう伝えよう。「よく来た、よく来た」と、私は子猫を抱きしめた。  その日以来、子猫は毎日私を訪れた。訪れたのは私が毎日牛小屋に返しに行ったからだ。他人の猫だと分かった以上泊めることがはばかれた。子猫はとにかくよく食べた。食の細いソラが残したものまでいつも平らげた。私は子猫が食べたいだけいつも食べさせた。今までどれほどひもじい思いをしてきたか、と思うと哀れだった。  臆病なソラは自分の半分の大きさしかない子猫にも最初はおびえたが、やがて慣れたのか庭でじゃれ合うようになった。子猫は時には雨の日にずぶ濡れになって来ることもあった。そんな日は返すに忍びず私の布団で一緒に寝た。子猫は当初はフッといなくなって、帰ったのかなと想う日もあったが、やがて全く帰らなくなった。私も二日に一回、三日に一回、一週間に一回と返すようになった。そのうち牛小屋まで連れて行っても、私が帰ろうとすると、またついて来るので、返すのに随分手間取るようになった。そんな生活が半年も続いた。その子猫に私は「モウシ」と名づけた。牛小屋の子猫だったからだ。こうしてモウシとの短い物語が始まった。 * 六年前、東京から新潟の阿賀野川の土手下にある沢海の里に転居した。その年の初秋の夕方、家族と連れだって近くにあるタモギの林を散策した。そこからは新潟平野が一望できた。その新潟平野から夕陽が今まさに日本海に落ちようとしていた。大阪と東京の薄汚れた暗紅色の夕陽しか知らない私は、その夕陽を見て仰天した。それはまるで火の玉だった。ギラギラと金色の光を放って燃え盛っているようだった。私は正視できず小手をかざした。そして三六〇度に多彩に展開する夕焼け雲にも圧倒され続けた。夕陽はやがて燃え尽きたかのごとく弥彦の山に隠れた。  知り合った村人にこの里の夕陽の感動をさっそく伝えると、「あなたは小焼けを見たことがあるか」と言う。そういえば「夕焼け小焼け」と歌いながら、「小焼け」の意味も分かっていなかった。「夕陽が沈んだ後、一瞬だけまた明るくなる、それが〈小焼け〉です」。その小焼けも見たくて、それからずいぶん長い間、私は夕暮れ時になるとタモギの林に出向いた。しかし「小焼け」らしいものはいまだに見ることが出来ない。 *  十月の夕暮れ、夕陽で五頭山が赤く染まる頃、私は野良猫のアサハラの夕飯を持って庭に降り立つ。何故アサハラかというと、薄汚さとむくんだ体型が例のオームのアサハラ君そっくりだからだ。いつの間にか飼い猫のソラが後からついてきた。途中アトリエの前で飼っているヒキガエルの「三代目」を籠の中に覗くと、のそのそと元気に歩いている。なぜ「三代目」かというと、この里に来て二匹も逃げられてしまったからだ。私は安堵して前を通リ過ぎた。水引の葉が紅葉しはじめた。そこに大きなナガ黄金蜘蛛が夕陽を浴びて見事な図形の糸がキラキラと光っている。昨夜の強風にも糸は大丈夫だったようだ。長手黄金蜘蛛は道具小屋の前にもアオキリの木にも居て、日増しに大きくなる彼らを見るのが毎日の楽しみだった。三メートル以上にも延びたコスモスの群が横倒しになっている中を五十歩ほど歩いて、私がキーウイの棚を利用してつくった庵に辿り着く。案の定アサハラがいてのっそりと起き上がり「ニャオニャオ」と鳴いた。虚空庵と私が名づけた六坪ほどの庵は、今や完全にアサハラに乗っ取られてしまった。アサハラが脇目も振らず夕飯を食べ出すのを見て私は心がなごんだ。両隣の柿もすっかり色づいて食べ頃に見えた。私はソラと一緒にベンチに腰をかけた。白サギが北へカラスが南へと帰って行く。アトリエの明け放れたドアから大きく音楽が聞こえる。私が編んだ「夕暮れの音楽」から、アルフレッド・デラーの「ダウン・バイ・ザ・サリーガーデン」が流れる。さすがに夕暮れの庭に染み通るようだ。早々と月が顔を出した。流れの速い雲が夕焼けて相変わらず美しい。私は煙草を深々と吸う。何という満ち足りた孤独だろう!。