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2005.2/掲載● 第一回 ・ 2005.10/掲載● 第二回 ・ 2007.12/掲載●第三回 |
【第一回】・
蠅四題
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八月には一匹もいなかった蠅が、九月に入るとうるさく飛びかった。余り衛生的ではない牛小屋が近くにあって、そのためかとも思ったが、本当のところは分からない。 二。三日前、蠅叩きで蠅を叩こうとしたとたんに、その蠅が蠅叩きに飛び移ってしまった。私はうろたえて、しばらく身動きできなかった。刀を取られてしまった剣豪のような気持ちだった。その蠅は蠅叩きを少しでも動かすと、目の前の机の上に飛び移り、叩こうとすると蠅叩きに飛び移る。 「お主なかなかやるな」と思わず呟いた。その日は武士の情けで諦め、追い払った。 |
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絵を描こうと思って椅子に座ると、机の上に蠅が群がっている。一撃で五、六匹は倒せそうなので、息を殺し忍び足で蠅叩きを探したが、見つからない。良く見ると探していた蠅叩きの上に群がっている。またもや進退窮まって術もなく、自分では素早いつもりで、蠅叩きをひっくり返して思い切り叩いたが、みんな逃げてしまった。 この数日、蠅どもにからかわれているという情けない想いがかすめた。以来、私のアトリエには蠅叩きが二本ある |
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硯で墨を擦って、いざ絵を描こうとしたら、蠅がうるさく腕にまとわりついて逃げない。腕を叩いてみたが、どうせ逃げられたと思って絵を描いていると、、墨池に落ちたらしい半死半生のその蠅がヨタヨタとなかば完成に近い「達磨図」の上を歩いている。油ではじけてそれほどの量ではないが、肝心要の達磨の目のあたりが汚れてしまった。何とか工夫してと未練がましくあれこれ試してみたが、諦めた。 先日も机の上の紙に蠅が居たので、蠅叩きで叩いたが、、その紙が完成した「寒山拾得図」で、しまった!と思ったがもう遅い。蠅の血が付いてしまって作品に成らず破って棄てた。 東京に居た頃、夜中に高価な画筆をネズミに食われて見る影もなくみすぼらしくなり、怒りにまかせて捨てようとしたが、試みにその筆で字を書いてみると、思いがけない線が生まれて、ずいぶん長い間重宝したことがある。 ネズミとは共作までした良い思い出が残ったが、蠅には恨みばかり残る。 |
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九月のある日の午後、蠅叩きで蠅を叩いた。しかし見当違いを叩いて逃げられてしまった。二度目も三度目も逃げられた。四度目は本気になって慎重に注意深く叩いたが、またもや逃げられてしまった。とたんに、自分でもびっくりするくらい落ち込んでしまった。老いぼれたのだ、潮時かな、もう駄目だ、終わりだ、と追いつめられた絶望的な想いが、蠅を仕留めそっこなったことが契機となり、あれこれと己の抱えている負の状況が同時にどっと想い出されて途方に暮れてしまった。 蠅叩きで妻叩いてみる遅日かな
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