クラリネット五重奏曲

k581(全楽章)

モーツァルトの

雲に置く

暮秋かな

●デルタイの解釈学に於いて「了解」とは、体験、表示、追体験という公式をもつ。一曲のクラルネット五重奏曲を前にして、追体験とはいかなる体験なのか。表示されたもの、作品とは、一個の世界解釈としての洞察であり、画家がその目でそうするように、音楽家は耳で解釈し洞察する。正しくこの観取された眼、聴取された耳を表示者の如く、もしくは表示者を超えて追跡体験すること、つまりモーツァルトの作品を鑑賞するのではなく、モーツァルトの耳が聴取したもの、モーツァルトがその耳で聴き渡した世界を共に聴き渡すことの共時的体験こそ、了解ということに他ならない。ブラーハへの旅の途中、または、イタリアへの乗り合い馬車の中で、いや恐らくは、ザルツブルグの未だ幼い頃、モーツァルトがその天才によって聴き渡し、聴き終えたもの、モーツァルトがその楽想によって洞察したもの、それこそ有限的現としての人間の存在歴史が、そこから由来しそこから生まれ、そこえ帰り行く完全なる無音、真空としての無そのものではなかったか。「無」が聴取され、そして「無」が歌われるということ、「無」が歌に現成したということ、例えばこのクラリネット五重奏曲がこの世に出現したと言うこと、この出来事を指して「美」と言わずして、何というべきか。
●モーツァルトは、肖像画を正面から描かれることを嫌った。彼の左耳は耳朶が欠損しており、いびつだったからだ。彼の次男フランツ・クサーヴァも同じ様な耳をしていた。優生素質による遺伝と考えられる。異形の左の耳と、正常の右の耳を傾けて聞き取ろうとしたモーツァルトの虚空音が私を悩ませる。
●私の集めたレコードは5,000枚。その中から「一枚のレコード」を選べと、人に言われると、躊躇なく「クラリネット五重奏曲、ハインリッヒ・ゴイザー盤」と私は言う。そのように人に答えて30年になるが、いまだに答えは変わらない。このクラリネット五重奏曲には、モーツァルトのすべてが聞き取れる。宗教的なもの、オペラ的なもの、シンフォニックなもの、もちろん室内楽的なもののすべてが。ドロルツ弦楽四重奏団の、自発的の高い、緊密なアンサンブルにささえられながら、ゴイザーの吹くこのクラリネットは、モーツァルトの輝きと、何よりも「憂愁」を全楽章に深々と現して間然とするところがない。私の知る限りこのゴイザー盤を推薦する批評家は、喜ばしいことに、皆無である。
●季語は「暮秋」。「暮の秋」ともいい秋の季節の終わりの頃をいう。「秋の暮」は秋の日暮れのことであり、俳句では厳密に区別する。

人のもの質に置きけり暮の秋 永井荷風

紙本墨画 着彩

33cm x 33cm
1999年