歌劇「ドン・ジョヴァンニ」

k527 全曲

しぐるるや

我が名

呼ばれん

まめ男

●ドン・ジョヴァンニはドンナ・アンナをものにしたか、答えは否である。何故なら歌劇「ドン・ジョヴァンニ」は、徹頭徹尾間抜けな色事師の末路を描いた喜劇だからだ。捨てた昔の女とも気ずかずエルヴィーラを口説き、そのエルヴィーラに邪魔されてツエルリーナを口説き損ね、やっとの思いでツエルリーナを部屋に引きずり込んで、ことに及ぼうとしても悲鳴をあげられてご波算。最後に口説こうとしたエルヴィーラの侍女も農民たちに阻まれてしまう。忘れてならないのは、この歌劇「ドン・ジョヴァンニ」を、台本作家ダ・ボンテはドラマ・ジョコーソ(喜劇)と考え、モーツァルトはブッフオ(茶番劇)と考えていたことである。喜劇としてのドラマツルギーの一貫性を考えるならば、ドン・ジョヴァンニはドンナ・アンナをものに出来た筈がない。伝説上のドン・ジョヴァンニはともかく、舞台上のドン・ジョヴァンニは、遂にただの一度も女をものに出来なかったのだ。それゆえ、征服した女の数が2,065人と歌う、レポレロの「カタログのマリア」は、全くのほら話でしかない。
●この間抜けな色事師を描いた歌劇「ドン・ジョヴァンニ」が、道徳や神に対する反逆者として、現在まで運命悲喜劇風にしか演奏されないのは、モーツァルトの音楽の劇性が、喜劇や茶番劇の枠を遥かに凌駕してしまって、伝説のドン・ジョヴァンニを、台本とは関係なしに、描ききったことにある。それゆえ、歌劇「ドン・ジョヴァンニ」は、台本と音楽の間に、決定的な亀裂が生じてしまった壮大な失敗作といえよう。
●ムーティ指揮による歌劇「ドン・ジョヴァンニ」のツエルリーナをスザンヌ・メンツァが歌っている。レーザーデスクで見て、ドン・ジョヴァンニがあれほど執着した理由がはじめて理解出来たほど、彼女は美しかった。
●「金持ちも男前も、まめ男にはかなわない」という。「まめ」とは、まじめで労苦を厭わず、物事に励む勤勉さのことをいう。つまり女は己の遺伝子確保のために、己に対して労苦を惜しまない男のエネルギーを、生物学的に利己的に最優先して選択するのだ。それゆえ伝説のドン・ジョヴァンニが、稀代の色事師となり得たのは、金持ち貴族で男前であったことにあるのではなく、彼の飽くなき「まめ」な行動によってである。
●芭蕉に「旅人と我名よばれん初しぐれ」という句がある。上掲句はその本歌取り。そこの句意は「初時雨を見て芭蕉が、旅人と呼ばれたいと望んだように、私もしぐれを見ながら想うには、一度でいいからまめ男になって、ドン・ジョヴァンニのような色事師だと呼ばれたいものだ」。
●季語は「しぐれ」。 秋から冬にかけてさっと降ってはすぐあがる雨。

うつくしきあぎととあへり 能登時雨 飴山実

この一歩すでに百歩や露しぐれ 橋・石

33cm x 33cm
1999年